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トリガーポイント研究所

昭和の戦争を考える③

昭和4年10月、米国株式市場の大暴落に端を発する経済恐慌が日本へも波及、この年の失業者26万人は翌5年には32万人、さらに6年には42万人に急増している。

昭和5年の国勢調査では内地の人口6445万人とある。男性はその半数3千万とみて、老人、子供、病人を除く就労可能人口をその70%とすれば、2100万人となる。そう考えると失業率は約2%となり、さほどのことではないように思われるが、当時はまだ家族の紐帯が強く、農家に寄食する次・三男が多くいたことを忘れてはならない。彼らはいわば潜在失業者で、公式な統計などないので分からないが、その数は顕在失業者数をはるかに上回るものであったに違いない。

また、当時勤労者の大半を抱える農村では、稲作も未だ品種改良が進まず、冷害の度に飢饉に見舞われていた。
昭和6年・9年には東北、北海道地方が大飢饉に襲われ、農家の婦女が苦界に身を沈めるという悲劇も少なからずあったと、大人達が話しているのを耳にした。

当時は国の政策としても、ブラジルなど南米移民が奨励されていたようで、私の母もブラジル移民講習会に参加したこともあったようである。もっとも、母の場合は、常に時代の先端を志向してやまないその性格によるものであったが、病弱や私を伴うことに思い至ったとき、現実に引き戻され断念したものと思われる。

いずれにしても、その頃の日本には、新天地を求める風潮があり、

『狭い日本にゃ住み飽いた 支那にゃ四億の民がいる』

という俗謡があったことが思い出される。

わが家の近くに小さな丘があり、そこに立つと遠くに玄界灘が広がり、大連航路の船や関釜連絡船が北へと向かうのが望まれた。船の姿が次第に小さくなり、やがて水平線の彼方に消えてしまうまで眺めては、私も子供心に、まだ見ぬ大陸への夢を膨らませたことであった。