トリガーポイント研究所
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第二話「アスピリンと吸入器」

子どもの頃の病気はいろいろあったが、風邪ひきと腹下しが一番多かった。風邪をひいて熱が出ると必ずアスピリンを飲まされ、橙(だいだい)の汁に砂糖を入れ、熱湯を注いだものを飲んで、布団にくるまり、ひたすら汗をかいて熱を下げたものである。少しでも身体を動かしたら発汗が止まると聞かされた。だから仰向けに寝たまま、天井の節穴を数えたりしてじっと我慢をしていると、そのうちに身体全体から汗が流れ始める。顔に出る汗は、枕元で看病してくれている父か母かがタオルで拭いてくれるが、布団の中の胸や腹や手足から流れ出るのは、流れるままに任せておく。汗の玉が腹や手足を伝って流れるその気持ちの悪いこと。でも、一滴一滴汗の玉が流れて行くたびに、これで風邪が治るのだと思ってじっと我慢した。三十分位発汗した後、身体を拭いて寝巻きを着替えた時のサッパリした気分は実に爽快である。しかし、その後で検温してみると、あれ程苦しい思いをしたにもかかわらず、たいして熱は下がってなくて、がっかりしたことも度々であった。
 
風邪で扁桃腺が腫れると、ルゴールを扁桃腺に塗布し、吸入器をかけさせられた。ルゴールはその赤い液に、綿棒代わりの割り箸に巻き付けた脱脂綿を浸して、扁桃腺に塗りつけて貰う。だが刺激性が強く、まことに嫌なものであった。吸入器は、最近はあまり見かけぬようだが、その頃は家庭に備えている家も少なくなかったようだ。
アルコールランプで塩水を温め、その蒸気を直接喉に吹き付ける治療法である。テーブルの上に吸入器を据え、その蒸気の吹き出し口に向かって口を大きく開く。蒸気が水滴となって流れるので、ゴムびきの布を胸に掛け、10分位、口を開けたまま我慢する。口を大きく開いたままでいるのも辛いものであったが、顔に当たった蒸気が水滴となって、顔から首へと流れていくのも、実に気持ちの悪いものであった。
風邪をこじらせて肺炎を引き起こすと、一段と厄介な事になる。幾日も幾日も高熱が続いて、夜となく昼となく夢うつつの世界をさまよう事になる。肺炎と言えば、芥子(からし)湿布とエキホスを思い出す。練った芥子をネルの布に塗布して胸部に貼り付けるのが芥子湿布である。芥子の刺激で皮膚がヒリヒリするのもさることながら、芥子独特の臭いが、胸から鼻先へ上がって来るのも、気持ちの悪いものであった。
エキホスは、今のサロンパスと同じような臭いであったかと思うが、白灰色の練り薬で、やはりネルの布に塗布して胸に貼り付ける。貼り付ける時の一瞬ヒヤッとする冷たい感覚を思い出す。
風邪をひいたら、必ず喉をやられ、高熱を発して一週間は間違いなく寝込んでしまうというパターンは、大人になってまで続いた。会社勤めをするようになっても、一年に一度や二度は、風邪で一週間ぐらい休んだものである。毎年の年次休暇の大半は、これでなくなってしまった。昭和三十一年に肺切をしてから体質が変わったのか、風邪をひくことが少なくなり、かりにひいても高熱を発するという事は殆どなくなった。
世間一般に、子どもの風邪ひきは、昔に比べて少なくなったのではなかろうか。昔はたいていの子どもが、青ばなを垂らしていたものであったが、今日では全然見かけなくなった。戦後の食生活の改善がもたらした最も大きな変化であろう。私達の子どもの頃は、男の子は誰でも、服の袖で垂れ下がる鼻を拭いたもので、どの子の袖もピカピカ、ガバガバになっていた。俗に金モールの袖と言ったりした。当時、海軍大将の礼服の袖には、幅の広い金モールが巻いてあったので、ピカピカ、ガバガバの甚だしい子は、青ばな大将などとあだ名されたものである。
肺結核などのように、その頃不治の病とされていたものでも、多くは今日それぞれ特効薬が発見されているが、風邪にはまだこれといった特効薬は無さそうである。(昭和五十三年)

 ⇒第三話「ひまし油」

2011年5月2日

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