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第三十七話「優等生」

E君を訪ねての帰り、永島君の打ち明け話を聞いてから、私と彼との心の隔たりは急速に縮まった感じであった。ふり返ってみれば、子供の頃から私の心の片隅には、単に学力の上での優劣だけで、彼を蔑視する気持ちがあったようだ。しかし、その話を聞いてから、私の彼に対する気持ちは、少しずつ変化していたようである。

クラス会の最終的打ち合せのため、再び彼の家を訪ねたら、その日も忙しく函造りをしていたようだが、快く私を迎えてくれて、またピールとなった。

二人で随分手を尽して勧誘したことであったが、最終的に今度のクラス会に出席の返辞があったのは八名ほどであった。東京、大阪など遠隔地の者の不参加は当然だし、近くに住んでいても、四十才といえば、男は働き盛り、日曜日も接待ゴルフなどで忙しいことだろうし、主婦はなかなか家を空けられるものでもないだろう。
「もう少し集まって欲しかったが、ま、しようがないか。これでも良く集まってくれると思うよ。なにしろ一クラス三十名、途中転校者を全部数えても五十名たらずだもんな。その中から石橋君のように戦死した者、藤井素子さんのように病死した者もいるんだから。」
と、自ら慰めるように私が言うと、
「そらまあそうやが、先生も、もう七十過ぎじゃ。みんなの顔を見るのを楽しみにされとるのに。」と彼は心残りな顔つきである。
それから欠席の返事のあった者、返信の無かった者、消息不明の者など同級生について話が弾んだ。
「ところでFやYはどうしとるのかな。Yはたしか横浜のほうで外科医をしとると聞いたが、横浜じゃ来られんのも仕方が無い。しかしFは大牟田じゃろう。どうして出て来んのじゃろう。小児科の開業医じゃ日曜日でも病院を空けるわけにはいかんのかな。二人とも中学卒業以来会うたことが無い。顔を見たいもんだが・・」
と言うと、意外にも永島君は、
「FやYの顔など見とうもない。先生には悪いが、出て来んでええと思うとる。」
と吐き棄てるように言う。

彼とYとは小学生の頃は同じ剣道選手仲間だったし、Fとも仲が良かった筈だ。不思議に思って
「何かあったのか。」
と尋ねると、最初は口ごもっていたが、そのうちにビールのコップを傾けながら話し出した。

「俺はこの前話したように、戦後ずいぶん苦労した。食うためにはいろんなことをして来た。なかには思い出したくないようなこともあった。それはもうええ。そのうちにとにかく軍隊時代の上官の手づるで、ここで紙函を造るようになった。あんたも下で見たろうが、洋菓子の函、タオルやシーツなどの贈答品を入れる紙函たい。あれなら軽いし、裁断機さえありゃ、俺のように右手が不自由な者でもやれる。おかげで今じゃロイヤルや岩田屋などにも納めるところまで来たが、初めのうちは、そうはいかん。小さな店を一軒一軒、頭を下げて回って仕事を貰うのが精一杯やった。今じゃ従業員も三人ばかり入れとるが、その頃は女房と二人で夜昼無しに働いたもんじゃった。

しかし、何時も仕事が貰えるちゅうもんじゃない。仕事のある時は夜なべしても二人じゃこなされん程注文があって、みすみす断わらにゃならんような時もあったが、景気が悪うなると、途端に仕事が無くなる。あんたのような給料取りにや分からんじゃろうが、仕事が無けりやたちまち飯が食えんことになる。夫婦で何日も昼飯を抜いて辛抱したこともあった。しかし、幸い近くに二十四漣隊の城内練兵場跡に原っぱがある。そこで野菜や芋を作って腹の足しにした。その頃、それまで弟の家に居た親爺とお袋を引き取ることになった。親爺は中気で何も出来んかったが、お袋が畑の加勢をしてくれた。

俺の実の母親は俺を産んで間もなく死に、今のお袋は世間で言う継母たい。ばってん俺は赤ん坊の時から育てられとるから、実の母親と思うとる。しかしお袋は自分の産んだ子じゃないちゅう気兼ねがあるんじゃろう、この家じゃ随分小そうなっとったが、精出して畑をしてくれた。おかげで食糧不足でみんなが苦しんだあの頃も、なんとか食いつなぐことが出来た。仕事の途絶えたときは、俺達夫婦も畑を広げ、芋など近所の人に分けてやる程出来た。ぱってん、自分の作った芋を食いながら、こげん芋が食えるちゅうのは、仕事の無いためじゃと思うと情けない気がした。その時女房が「いいじゃないですかこうしてお芋さんでも食べられるんですから。雨は降り続いても必ず揚がる。また断わらなならん程注文が来ますよ。」と励ましてくれたこともあった。

たしかその頃やった。大濠公園でYとFに出会うたんや。懐かしかったなあ。二人とも九大医学部の学生やった。三人でいろいろ話したが、二人とも偉うなっとるのにぴっくりした。なんでも大学を卒業したら無医村に行って、今医療を受けられずに苦しんでいる人達のために働くんやと言うとった。俺はその時思うた。やっぱ、学問した人間は考えることが違う。俺なんか毎日どうやって食うて行くか、たまさか金が入りや今夜は一杯呑むかとか、女房になんか買うてやろうかとか、自分や家族のことしか考えたことがない。世のため、人のためなんぞ、ついぞ思ったこともない。二人の話を聞いていて恥ずかしうなった。それにしても、医者になる勉強ちゅうもんは大変なものらしい。二人の話では毎晩遅くまで勉強しとるらしい。

しかしその頃のことだから、食べ物が無く、腹が空いて勉強にならん時もあると言うとった。その時、俺は思うたな、この人達が腹を空すことなく、勉強が出来、一日も早く無医村の人達を助けられりやいい。俺もそれに少しでも役立とう。幸い俺の畑には薩摩芋がある。そうだ、芋を二人に食べて貰おう。そう思うて二人に話したら、大層喜んでくれた。それからしばしば二人で芋を貰いに来たもんやった。俺も、なんか自分が無医村の人を助けとるような、いい気がしたもんやった。・・・それがなんや。あいつ等今どこで開業しとる。横浜に大牟田やないか。そんな無医村聞いたこともない。俺はあいつ等の顔など見とうもない。」

「ふーん。そんなことがあったのか。」
と言いつつも、私がなんとコメントすべきかためらっていると、彼は私のコップにビールをつぎながら話を続ける。

「先日も俺がそう言うて腹掻いとったら、女房の奴が、こげん意見しよった。『あなたがそんなに腹を立てることはないじゃないですか。そりゃ無医村の人を助けるのは立派な仕事でしょう。でも都会の病人を治すのも決してつまらぬことじゃないじゃありませんか。あのお二人の勉強が役にたってるんですから。それに考えようでは、無医村で僅かな人の苦しみを救うより、都会でもっと多くの病人を治療する方が、より
世の中のためになっているとも言えるじゃないですか。どっちにしても、。私達のお芋が役立つたんだから、それでいいじゃないですか。』言われてみればそれもそうだが、俺はどうもスッキリせん。無医村に飛び込む医者だけが仁術で、都会の医者はすべて算術とは言えん、そんくらいの道理は俺にだって分かる。しかしどうも俺の気持ちはおさまらん。そりゃあ、若い時の純粋な気持ちを一生持ち続けるなど誰にもできん。人間
年をとれば考えも変わる。そりゃええ。しかし男が一遍人前で誓ったことやないか。誓いを破るなら破ると、なんで断わらん。「仁術より算術が好きになりました」と、なんで俺に断わらん。俺は無医村の人に尽くしたつもりで居ったんや。そりゃ、手前の独り良がりと言われても仕方が無い。ばって、これでは無医村で今も苦しんで居る人に、俺は顔向けでけんやないか・・・」                    。
ビールは何時しか酒に変わり、彼の口調はいよいよ激しく、相手する私はたじたじの態であった。

私が世話人となって催したクラス会は、先生もお元気な姿を見せられ、出席者一同童心にかえり、楽しい一刻を過ごした。最後に二十数年ぶりに「仰げば尊し」を合唱した時は、年甲斐もなく涙がにじみでたことであった。終わりに、みんなから、とても楽しかったと礼を言われ、世話方を勤めた私は、とりわけ嬉しかった。戸畑へ帰られる先生を博多駅で見送った後、私は永島君を駅の近くの小料理屋に誘った。なにくれとなく加勢をしてくれた彼に、感謝の意を表したかったのである。

クラス会で呑んだ後だから、酒はあまりすすまなかったが、久方ぶりに会った同級生のことなど話は尽きなかった。私はその時、今日のクラス会の席で、先生が息子さんのことについて、何かしきりと永島君へ礼を言われ、彼もまた息子さんの様子を尋ねたりしていたのを思いだし、何のことか尋ねてみた。彼は初めはちよっと言渋る感じであったが、思いきったように
「あんたやから何もかも話すわ。」
と次のような話をしてくれた。

「あんたの知っとる通り、俺はクラスで一番の出来ん坊主やった。六年間一番先生の手を煩わしたのは俺や。それに何時かも話したように、俺が取り返しもつかぬ間違いをする寸前に助けてくださったのも先生や。それで俺は、何時か必ず、どんな小さなことでもええ、先生に恩返しをせねばと思うとった。

先生は明治小学校から佐賀県の西杵炭坑の青年学校へ行かれたが、定年で辞められて戸畑に戻られた。西杵で奥さんを亡くされたが、先生は遅子持ちやったけん、まだ小さな子供、そうや四人居ったな。その子供を抱えて苦労されたらしい。その頃は俺も毎日の飯を食うのに死にもの狂いじゃったけ、なにも知らんじゃった。それから何年ぐらいたってからじゃったろうか、先生は後添いの奥さんと戸畑の公民館の管理人をされておられた。上の嬢ちゃん達はもう勤めに出られちょったが、一番下が男の子で、その年福岡教育大学に入学されたらしい。
その学資等で先生の家もやりくりが大変じゃちゅう話を誰かから聞いたんや。俺は早速何とかせねばと思った。その頃は仕事もだいぶん軌道に乗って、デパート等にも函を納めるようになっとったから、たいしたことは出来んが、坊っちゃんの小遣いぐらいは月々差し上げられると思うて、女房に相談した。

ところが女房は首をかしげ、「それはどうですかね。」と反対しよる。俺はカッと頭にきて怒鳴りつけたんや「家計のやりくりをするお前が、出費を惜しむのはええ。しかし、この金は他のこととは違う、先生に上げる金ぞ。俺が今日あるのは先生のおかげやないか。先生が苦しい時には、一番に助けてあげるのが俺の務めやないか。」すると女房の奴が「私はお金を出すのを惜しいと言うてるんではありません。ただ貴方がお金を持って行かれても、先生は受取られんとやないですか。俺は乞食やない、と言われたらどうします。」と言う。言われてみたらその通りや。俺は先生に恩返ししたい一心やったが、受ける先生の気持ちなど考えてもおらんかった。「そんなら、どうしたらええんや。なんとか先生に受け取って貰う法は無いもんじゃろうか。」そしたらあいつが「坊っちゃんに家庭教師をお願いしたらどうですか。」と変なことを言い出す。俺んとこの長男は、その頃まだ小学校三年にしかならん。それに俺達ぐらいの家で、家庭教師なんぞ分を弁えぬ僭上の沙汰、考えてみたこともない。しかし坊っちゃんに伜の遊び相手でもして貰うて、謝礼として直接坊っちゃんに手渡す。うん、こりゃ名案じゃと思うた。女房の奴案外頭のええ奴じゃと見直したことやった。ま、そんなことで大学在学中ずっと伜の家庭教師をして貰い、自分から言うのは気が引けるが、相場の倍くらいの謝礼をしたつもりや。坊っちゃんにも喜んでもらうし、先生からも礼を言われたことやった。今日もその時のことを繰り返し言われとったんや。」

「そうか。お前ええことしたなあ。良か恩返ししたもんじゃ。しかし、なかなか誰にでも出来ることやない。偉いもんじゃ。」と私が感心していると。
「それが違うんじゃ。俺もこれで先生にいくらか恩返しが出来たと、多少いい気になっとった。しかし、出来ん坊主の考えなんか浅はかなものよ。この前、女房が中学のPTAに行ったんや。うん、その長男がいま中学二年たい。そしたら大層成績がええちゅうて担任の先生に褒められたげな。女房の奴鼻高うして戻って来よった。そして「貴方は何時か、これで先生に恩返しが出来たとか言われてましたが、そんな気でいると罰が当たりますよ。貴方と私の子供がクラスで一番なんか、当り前ならなる筈がないでしょう。みんな先生の坊っちゃんのおかげですよ。」と言いよった。そりゃそうや、俺みたいな出来ん坊主の子が一番になるなんか、そげんことはなか。みんな坊っちゃんにずっとみて貰ろうたおかげよ。考えてみりゃ、お釈迦様の掌の上を走り回っちょる孫悟空たい。先生から受けたご恩を多少なりと返したなんと思うとったのは愚かの極み、また返さにゃならんご恩が倍になっただけのこったい。」

彼はそう言い放って呵呵大笑した。-その底抜けに明るい笑顔を見ながら、私は暫し言葉も無かったが、私自身の心の貧しさを笑われている思いであった。想えば小学校の卒業式では、彼は皆勤賞以外に何も賞を貰わなかったが、彼ら夫婦こそ最も素晴らしい人生の優等生ではないか。 (平成二年)

2014年12月30日

所長の佐藤です。

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