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「第三話 再び北海道へ(老いらくの旅)」

昭和六十二年、満六十五歳を機に引退、年金生活に入ることとなった。今までの時間に拘束される生活から解放されたのを機に、今一度北海道へと言うかねての願望を実現すべく、先輩の井手千二さんを誘って、名鉄観光のパック旅行に参加、四十五年ぶりに北海道へと旅立った。

昭和六十三年六月二十六日、十二時二〇分、羽田発ANA六一便に乗る。離陸後忽ち雲の中。飛行機は奥羽の上空で高度を下げる。地上がかすかに見えて、やがて海を渡る。

日高の海岸線が見えて間も無く千歳空港に着陸する。内陸空港としては、周囲が広々としている。札幌観光バスすずらん十号で札幌へ。

雪祭りの会場となるという大通り公園で下車。まず近くの札幌名所時計台へ向かう。周りを高いビルが取り囲んで四十五年前の記憶とは重ならない。
更に歩いて旧道庁に行く。周りの道や建物が立派になり、今ではまことに明るい観光地となっている。昭和十八年六月に来た時は、ポプラの木陰に古く暗い池があったように思う。今日は初夏の日曜日で人出が多い。大通り公園に戻ってみると、パフォーマンスをする若者がいたが、四十五年昔には見なかった明るい日差しが、彼等の上に降り注いでいた。

バスで定山渓温泉へ向かう。札幌から西へ四〇キロばかり、郊外住宅地を抜け、坂道となる。やがて両方の山が迫ってくる。豊平川の上流、川を挟んで温泉街が続く。

定山渓グランドホテルに案内される。格別豪華という程ではないが、まずまずの宿。
ここの自慢は風呂。ヴェルサイユ浴殿、ギリシャ浴殿、水車風呂、忍者風呂、飛燕露天風呂、太鼓橋露天風呂などなど。眼下に川の流れる露天風呂に浸かっていたら、頭上を岩燕が飛んでいたが、風が吹くといささか寒い。

翌朝、朝風呂のあと、豊平川沿いの遊歩道を歩く。上流に向かい。憩橋を渡り山道に入る。浴衣の上から藪蚊に刺される。朝日岳登山口という標識を見て折り返す。

川沿いの遊歩道を辿り、河童が淵をまわり、二見吊橋を渡る。やがてホテルの対岸の公園に出る。更に川沿いに下ると恵橋に至る。このあたりまで来ると、浴衣がけの宿泊客が朝の散歩をしている姿が見られた。

六月二十七日八時、定山渓を出発。昨日来た道を引き返し札幌に出る。河幅の広くなった豊平川の土堤の上を走る、立派な遊歩道も設けられてあり、なかなか奇麗な道である。やがて高速道路に上がり、北上する。

バスガイドの案内で神居古潭にさしかかったことを知り、周りを見回したが、昔このあたりを走っていた鉄道は無く、石狩川の崖にのっかかるようにあった駅舎も無い。かつての線路跡は、しゃれたサイクリングコースになっている。今走っているこの道路は、昔の駅の対岸に見えていた緑豊かな森を削って造ったのだろうか。立派な道路が出来て便利になるのは結構なことだが、あまりにも明るく広くなって、神居古潭の趣はすっかり失われてしまった。

旭川では町外れの丘の上にあるドライブインで昼食を摂っただけだったが、盆地のためか、えらく暑いのに驚いた。

昼食後観光バスは層雲峡へ向かう。四十五年前、訪れた時は、上川駅からバスだった。道はまだ舗装されていなかったのではなかろうか。石狩川沿いに遡ると、両側の崖が次第に迫り、いたるところに奇岩、奇峰が見られた。バスは当時としては珍しく頭上の景色が眺められるように、天井の方までガラス張りになっていたことを記憶している。層雲峡の入り口の橋を渡ったところに、当時はたった一軒の旅館があった。

今も同じ位置にホテルがある。そこから川沿いに小さな道を辿って、流星、銀河の滝を見、小函、大函まで歩いたことだった。戦時中で観光客らしき人も無く、唯一人薄暗い道を往復したことが思い出される。今では立派な自動車道が出来、沢山な観光客が押しかけて来ている。
先年の崖の崩落の後、トンネルが造られたということであるが、小函は近寄って見ることは出来なくなっていた。

層雲峡から温根湯(オンネトウ)温泉へ。石狩と北見の郡境の石北峠を越えるとき、雪の残る大雪山系の山々が右後方に連なっていた。前方彼方に見えるのはサロマ湖かオホーツク海か。このあたりの海は毎年二月になると流氷が押し寄せてくるとか。

坂を下って北きつね村で下車。北キツネを飼っているのだが、思ったより規模は大きくない。毛変わり時期でキツネも見すぼらしく期待はずれであった。TVの「北の国から」に登場するあのような北キツネは、やはり厳冬に来なくては見ることが出来ないものだろう。この日は北見盆地の中に位置する温根湯温泉に泊まる。

夕食後ホテルの前の小川を渡って小さな夜の街を歩いてみたが、人通りも少なく寂しく鄙びた湯の街であった。
翌朝早くホテルの裏に広がる畑を歩く。広々とした台地に果てしなく続く一直線の農道。その両側に麦、ビート、馬鈴薯の畑が広がっている。緩傾斜の農道を辿るとやがて山道にさしかかる。そのあたりに来ると、山水が気ままに流れ、背丈もあるような蕗が野放図に生い茂っている。痒いと思ったら、シャツの上から大きな藪蚊に刺されていた。王子製紙の試験林の立て札のあるところで引き返した。

六月二十八日、温根湯八時出発、留辺蘂(ルベシベ):を経て端野へ向かう。われわれの乗るバスの走り過ぎる両側には、果てしなく広い畑、どこまでも続く一直線の道路、まさにデッカイ道の光景が繰り広げられていた。

端野のドライブインで、山の向こうは美幌と聞いたが、四十五年前に訪れたあの街はどのように変貌したことだろう。パック旅行でなければ、脚を伸ばしてみたいところである。

端野から常呂へ。明治、大正の昔、網走刑務所の囚人を使役して建設された通称囚人道路を走る。後に道路の下や周辺から、過酷な使役に仆れた囚人の遺体が、足枷をつけたまま発見されたとか。道の傍らに彼等を葬った「鎖塚」がある。

やがて左にサロマ湖、右手にノトロ湖を見つつ、坂を下れば網走の街に入る。凶悪犯を収容するいわゆる網走番外地、網走刑務所の前を通って藻琴へ向かう。

オホーツク海岸のドライブインで早めの昼食となる。これより知床に入ると食事をするところが無いためとか。

快晴の初夏の陽光の下、オホーツク海は穏やかで明るい。流氷の押し寄せる岸辺とは想像出来ない。四十五年前ここを汽車で通った時、藻琴から次の駅まで、一つの牧場の柵が延々と続くのに驚いたことを思い出す。

小清水の原生花園に立ち寄る。ハマナス、エゾキスゲ、エゾスカシユリ、センダイハギ、オオハナウドなどの花が咲いていた。しかし思ったより花が少なかった。時期が早かったのだろうか。

オホーツク海を左に見つつ、バスは知床へと走る。海辺の磯に鴎が群がり遊ぶ姿が見える。やがて行く手に斜里岳が見えてきた。その後ろに海別岳、オンネ別岳が続く。

まだ山の斜面のところどころに雪が残っている。その雪解けの水が、オシンコシンの滝、三段の滝など無数の滝となって直接オホーツクの海に注いでいる。険しい崖にかかる滝の飛沫をあびながら下を見ると、知床の海は底が見えるほど澄み切っていた。

ウトロから知床峠に登る。知床峠の展望台に立てば、北方領土国後島の島影が見えた。峠を向こうに越えれば羅臼とのこと。

知床峠から折り返して斜里~小清水~川湯へ。川湯に「大鵬の実家」と看板を掲げた土産物屋がある。我々のバスがその前を通ったとき、大鵬によく似た大柄の男が店番をしているのが見えた。ガイドの話では大鵬の兄さんということであったが、我々に向かって手を振っていた。すぐ近くに大鵬記念館というのもあるそうだ。

屈斜路湖に立ち寄る。湖畔でアイヌ衣装を着させられて記念写真を撮られた。
屈斜路湖湖畔はミニ開発されたのか周辺の施設も粗末でなんとなく薄汚れた感じである。ガイドに教えられて、岸辺の砂を掘ってみたら、熱い湯が出て来た。

屈斜路湖から硫黄山へ。硫黄山の噴煙はなかなかの迫力がある。バスから降りて、ハンカチでを鼻を覆いながら見学したが、そのガスのため、周辺の白樺の木が裸木となって、しかもなお立ち続けている光景は、鬼気迫るものがあった。

再びバスに戻り、急な坂を巡り巡って摩周湖展望台に至る。霧の摩周湖と言うが、運良く今日は雲一つ無い。擂鉢の底に湖面がある地形で、岸に下りることは出来ない。それにしても素晴らしい眺めである。四十五年前に果たせなかっただけに、感動はまた格別のものがあった。

摩周湖展望台を下り、バスは弟子屈を通る。四十五年前ここの温泉旅館に泊まった。弟子屈の駅から川沿いの坂道を上った。あのときは風が強く、砂埃が舞い上がっていたような気がする。今も坂道はあるが、広く立派な舗装路で、記憶の中の街とは重ならない。

やがて、また山道に入り、ペンケトー、パンケトーという二つの沼を見る。双岳台、双湖台を経て、今日の宿阿寒湖ビューホテルに入る。

ホテルは湖岸に接してはいないが、なかなか立派。特に部屋が広いのが気持ち良い。ホテルの前庭にはバーベキュー広場があり、賑わっていた。

翌朝早くホテルの周辺を散策する。阿寒湖の朝は霧が深い。近くにある森林広報センターの庭で、アカゲラが木の幹をつついているのを見ることが出来た。カッコウものどかな声で鳴いている。オダマキやエゾツツジが花をつけている。その先にはアイヌ部落というお土産物屋の並ぶ商店街がある。マリモとかコロボックルという看板を上げている店が目に付いた。

六月二十九日。七時三〇分阿寒湖出発。神秘の湖オンネトーに立ち寄る。湖の向こうに雄阿寒岳、雌阿寒岳が見える。バスの座席は毎日交代することになっているが、今日は私たちは最前列となった。おかげでオンネトーから足寄に向かう森の中の道で、野生の鹿が道を横断するのを見つけた。夫婦鹿であろうか、森の木立ちの中で立ち止まり、二頭並んで、しばらくわれわれのバスを眺めていた。

やがて十勝の大平原に出る。一直線の道、対向車もほとんど無い。見渡す限りの平原のあちこちに、落葉松や白樺の防風林が立ち並ぶ姿はまことに美しい。

そのうちに車窓から眺める景色の中に、牧場がふえてきた。間も無く、十勝から日高へ向かう日勝峠を越えて日高ドライブインで昼食を摂る。

日高より富川へ。いよいよ牧場が多くなる。さらに進むと左手に苫小牧の煙突、そして太平洋の波頭が見えてきた。しばらくすると、バスは白老ポロトコタンに入る。

四十五年前は砂埃の舞う汚く侘しい街だったが、今ではすっかり奇麗な観光地となっている。中央広場でアイヌ衣装を纏った二十人ばかりの男女がピリカを歌い、イヨマンテの踊りを演じるのを見物した。
昔はこんなアトラクションは無かったが、粗末な酋長の家に上がり込み、酋長夫妻と膝を突き合わせて話を聞くことが出来た。ああ、あの酋長は最早故人となったことだろうが、今日のこの様子を見たら、どう思うだろう。

この集落が豊かになったと、ひたすら喜ぶとは思われない気がする。あの頃白老の駅前で写真館をしていた長男はどうしているだろう。もうずいぷんの年になるはずだから、あるいは彼もすでにあの世へ旅立ってしまったかも知れない。私はしばし今昔の思いに、呆然と佇んでいた。

白老からしばらくは海沿いの道を走る。やがて高速道路を下りて間も無くT字路に出る。正面に高さ十ハメートルの大きな鬼が立っていて、右手で登別温泉の方向を指示している。そこから曲がり曲がった坂道を上って温泉街に入る。さらに狭い道を辿ってその奧に入ると、今夜の宿、登別温泉パークホテルが川沿いの崖の上に建っていた。

夕食後、坂を下って温泉街をひやかす。高校生の修学旅行か、女の子が三三五五、道の両側に並ぶ土産物屋を覗きながら、そぞろ歩きしていた。

翌朝、井手さんと宿の近くにある地獄谷まで歩いてみた。立派なハイキングコースが設けられていた。硫黄の匂いが鼻を刺激する地獄谷の坂道を上って、大湯沼に至る。大湯沼を巡る遊歩道もあるようだったが、時間がないので、それは断念して折り返し、ナナカマド広場に出る。そこはわれわれの他誰一人いない、さわやかな朝の広場であった。

六月三十日、登別温泉七時三〇分出発。室蘭を経て噴火湾の岸を回る。伊達藩士の開拓によると言われる伊達虻田を通って、毛蟹の産地長万部(オシャマンベ)で休憩。さらに国縫(クンヌイ)から紀州徳川氏の開拓した八雲を通り、鳥賊で有名な森で休憩する。今日も好天に恵まれ、車窓より見る駒ヶ岳が、時々刻々とその姿を変える。

大沼公園に至り昼食。ここでは豊かな水を囲む緑の森の彼方に駒ヶ岳が見えた。
大沼、小沼の間を抜けて南下、五稜郭に至る。四十五年前訪れたときは、変哲も無い五角形の広場のそこここに、雑草が生い茂っているようなところに過ぎなかったが、いまではいろいろな観光施設が整備されている。なかでも、広場中央の展望タワーに上れば、この城独特の星型の洋式城郭が一望出来るようになっているのには驚いた。

次に湯の川のトラピチヌス修道院を見学。その赤煉瓦の建物は、坂の上の傾斜地に建っていた。修道院を囲む森の翠は六月の風を受けて、明るい陽射しをほしいままに散らしていた。
一旦坂を下りて函館市内に入る。コカコーラなどスポンサーの広告を車体につけた市内電車が走っている。バスガイドが函館の大火について説明していたが、昭和初期、ここに住んでいた叔父一家も焼け出され、母がかき餅や古着など荷造りして、はるばる九州から送っていたことが思い出された。

津軽海峡に突き出した函館の地形は、東西に海を控えた平地で、風の通り道となっている。このため、一旦火が出ると風に煽られて大火となるのだろう。明治維新で松前藩の典医から町医者となって函館に移り住んだ私たちの祖父も、明治初期の大火で焼け出されたと聞いている。

元町通りを抜けて函館山に上る。展望台に上ると、強い風が吹きつける。ここからの夜景が素晴らしいということだが、この時間では想像するだけ。眼下に洞爺丸が遭難した海が見える。昔麻生本社に中野君という社員がいたが、彼は兄夫婦と父親をそのとき失ってしまった。

それまで北海道の炭坑に勤務していた兄が、東京本社へ栄転することになり、家族一同希望に胸を膨らませて上京する途中の遭難であったとか。

函館より同じコースを折り返し、大沼公園のジーノサイ沼の脇を通って虻田から洞爺湖に入る。虻田から洞爺湖畔へ越す峠の展望は素晴らしい。湖心に浮かぶ中ノ島の向こうには、別名蝦夷富士と言われる羊蹄山の美しい山容が望まれる。四十五年前と変わらぬ眺めであった。

洞爺湖温泉ホテルに入る。ずいぶん長い廊下を歩いてオープンしたばかりの大宇宙風呂と言うのに入る。浴場の左隅の扉を開けると露天風呂に通じる。扉の外はいささか肌寒いが、露天風呂に身を沈め、暮れなずむ洞爺湖を眺めていると、前回ここに来たときから四十五年もの歳月が流れたとは思われぬ奇妙な気分に襲われた。

ここに来た年の十二月、私は学徒出陣で歩兵一二四連隊留守隊に入隊。翌年本土防衛部隊として大隅半島に展開、幾度も米軍の空襲を受けながら、その都度山の中の防空壕に身を潜めて避け、運良く終戦を迎えた。戦後は炭坑会社に入社、労組相手の団体交渉、エネルギー革命の波に翻弄されての首切り稼業、セメント会社の経理では、時に融通手形を振り出す綱渡り・・・世の中の高度成長とは縁の無い世界を歩いてきたが、夢のような四十五年であった。こうしてのんびり湯に浸かっているのが不思議に思われる。

部屋に戻ると二の膳つきの豪華な料理が並べられている。井手さんと差し向かいで杯を交わし始めると、窓越しに広がる洞爺湖の湖面から、花火が上がり始める。洞爺湖旅館組合が仕立てた二隻の船が、移動しながら各ホテルの前で花火を打ち上げて行く。またそれを追うように電飾した屋形船が湖面を移動する。聞くところによると、予約した観光客が、花火を鑑賞しながら、船上で宴会を催しているとか。贅沢なものだ。

翌朝ホテルに連なる町営の公園を散歩する。右手の緑の上に赤茶けた山肌の有珠山が突
き出ている。白楊(どろのき)の綿毛が、まるで鳥の羽毛のように空中を舞い、やがて道の片隅に吹溜まりとなっている。

七月一日、九時出発。昭和新山に向かう。
昭和新山は、昭和十八年十二月に火山活動開始、十九年六月の噴火によって、麦畑の中に四〇三メートルの山が出来たもの。私がここに来た昭和十八年六月にはまだ無かったものだ。

昭和新山から山道を通り、美笛峠を越える。このあたりは緑に包まれたまことに美しい眺めである。間も無く正面に支笏湖が現れる。支笏湖は北海道の湖では、最も深い湖とのこと。そう言われれば、なんだか引き込まれるような水の色である。湖畔のレストランでジンギスカン鍋の昼食を摂る。

支笏湖から千歳空港へ向かう途中で長流(おさる)川の「白絹の床」を見る。川底の黄色く平たい一枚岩が透き通って見える。北海道の旅の最後を締め括るにふさわしい実に奇麗な水であった。
千歳空港十四時三〇分発ANA六二便で帰路につく。

2016年10月12日

所長の佐藤です。

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