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八.道路・乗り物・旅行など(⑤ 国 鉄)

⑤ 国 鉄

昭和二年、私はまだ五歳の幼児であったが、わが家は小倉西原町の借家に住んでいた。近くに小倉工業学校があり、その裏手に国鉄日豊本線が通っていた。その頃はまだ単線で列車の通る回数も少なかったので、近所の子供達とそのレールの上をどれ位歩けるか競争して遊んだりした。まだ汽車に乗ったことは無かったが、子供心にこの線路はどんな所まで行くのだろうと思ったりした。

当時の国鉄は、すべて石炭を燃料とする蒸気機関車が列車を牽引していたから、走行中絶え間なく煙突から煤煙を吐き出していた。ほとんどの列車が電化された今日では、JRが山口線や豊肥線などの一部区間で、観光サービスとして時折運行している。その時は、美しい風景の中を走る姿をカメラに収めるべく、鉄道マニアが追いかけているようだ。

緑豊かな山野や色鮮やかな紅葉の渓谷を、煙突から煙を吐きながら走るデコイチ(D51機関車)の姿は、確かに眺める者の旅情と郷愁を掻き立ててやまない。しかし、すべてが蒸気機関車であった昔は、その煤煙に苦しめられ、詩情を感じる余裕などなかった。冷房も無い昔の夏の車内はとりわけ蒸し暑い。そこで窓を開けて外気を入れることになる。ところが、客車の窓ガラスは上に押上げて左右両端についているバネで窓枠に固定する仕組みになっており、挙げた窓ガラスが列車の振動で落ちることのないように、強いバネが付けられている。だから窓ガラスの上げ下げには案外力を要する。窓際の座席でも、座ったまま窓ガラスの両端のバネを抑えて上下するのは容易ではなく、その都度立ち上がらねばならない。そんな苦労をしても窓を開ければ、機関車の吐き出す煤煙が入り、ガスの臭気が顔を覆い気持ちは良くないが、外の涼しい風を入れるために我慢する。

しかしトンネルに入ると、煤煙は纏めて窓から入ってくるので窓を閉めずには居られない。日豊線の大分・延岡間など、ことさらにトンネルの多いところでは、立ったり座ったりを頻繁に強いられる。

なお車窓から入って来るのは煤煙だけではない。今日の客車のトイレはタンク式で、終着駅などでタンクを取り外し内容物をしかるべく処理しているようだが、昔の列車のトイレにはタンクは取り付けてなく、走行中直接道床に撤き散らしていた。今では信じられないような不衛生なことが行なわれていたのだ。駅のホームの目の前に汚物が遺棄されては困るので、停車中はトイレを使用しないように車内放送がされていた。

だから乗客は列車の進行中にトイレを利用する。その時放出された汚物は、道床に落下すればまだ良しとしなければならないが、実は列車の進行で巻き起こる風に吹かれて後方へ拡散することになる。そして一部はトイレの後方四~五列目の窓にかかることになるらしい。

もうずいぶん昔のことであったが、これを実験してみた人が居たらしく、テレビで放映したことがあった。トイレと同じ側の窓ガラスに白紙を貼り、列車の進行中にトイレに赤インクを流したところ、トイレの位置から四~五列目の窓ガラスが赤く染ま、ているのが見られ、アナウンサーが国鉄の客車に乗るときはトイレの位置を確認して座席を選ぶのが賢明だとコメントしていた。

かつて列車の窓を開けて外を眺めていたとき、快晴なのに、顔に飛沫がかかったような気がしたことがあったのを思い出し、慌てて顔を拭ったが、すでに後の祭り。全く無意味なことをしたものだ。

それはともかく、国鉄が客車のトイレにタンクを付けるようになったのはいつ頃だったのだろう。昭和三十九年に東京オリンピックが開催されているが、その前年くらいかなと考えたりしている。しかし首都圏の沿線では早くから人家が密集していたところが多かったことと思われるが、どう対処していたのだろう。

わが国では明治五年、新橋~横浜間、明治十年、大阪~神戸間で鉄道が開業されているが、これらはごく短い距離で、車中トイレの必要は無かったかも知れない。しかし明治二十二年、東海道本線(新橋~神戸間)が全通している。始発から終点まで当時どの位の時間を要したか分からないが、車内にトイレを備えていたことだろう。

してみると明冶二十二年(一八八九年)から昭和三十六年(一九六一年)頃まで約七十年間にわたって、国鉄は沿線に汚物を撒き散らしていたことになる。車内トイレの利用者の中には病人も居て、赤痢菌などの黴菌も同時に拡散されていたに違いない。今から考えるとずいぶん不衛生なことが公共の場で行なわれていたものだと驚かされる。

しかし、昔はヨーロッパ諸国の主要都市でも、汚物処理のシステムは整備されてなく、婦人が自宅の窓から外へ向かって便器を差し出し汚物を放棄していたとも言われ、また近世来日したザビエルやフロイスといった宣教師達が、日本の街の清潔なことに驚いたと言うことが伝えられている。そうしたことなど思い合わせると、列車トイレの汚物処理も、欧米先進国に比べ日本が特に遅れていたと言うわけでもないのかも知れないが、不勉強の私には分からない。

それはともかく、今日では新幹線をはじめ多くの客車の窓は開けられないようになっている。開けられる窓でも、冷房設備があるので、真夏でも開ける必要はなく、また仮に走行中開けて外へ顔を向けても、列車トイレの被害を被ることはない。

なお今では新幹線をはじめとして在来線でも、たいていの列車はトイレのそばに洗面所が設けられている。尤も、筑豊線のようなローカル線には、トイレはあっても洗面所は無いようだ。昔は東海道本線を走る特急列車でも、同様に洗面所は無かった。勿論トイレの中には小さな手洗いがあったから、不都合はなかったが、顔を洗うことは出来なかった。列車に洗面設備が作られるようになったのは何時のことだろう。昭和三十年前後のことと思われるが定かではない。

私が初めて汽車に乗せてもらったのは何時のことだろうと考えてみたが分からない。五歳のとき、母に連れられて湯の平温泉に湯治に行ったことがあるので、その時小倉から湯の平まで国鉄を利用した筈だが、汽車の記憶は無い。小学校の二年生の夏休み、やはり母に連れられて大分県臼杵市の親戚に行ったが、その時日豊線の汽車に乗ったことは、わすかに記憶している。それでも車内で初めて駅弁を食べたことぐらいで、車内の様子などは
憶えていない。

その後、学校の遠足などで汽車に乗った時の経験から類推してみると、当時の客車は、今日も見られる四人がけの対面式ボックスに仕切られていたが、座席は固定されていて、向きを変えたり、背もたれの傾斜角度を変えたりする機能は無かったようだ。

また客車には、設備によって一・二・三等の区別があり、われわれ庶民が利用する三等車の座席は固い木製剥き出しの椅子であった。高額運賃の一・二等車は快適な設備が施されて居たに違いないが、どのようになっていたか、利用経験の無い私は知らない。

後年、三等車も座席や背もたれにクッションが用いられるようになったが、昭和十年代後半のことではなかったろうか。なお、座席の方向変換や、リクライニング機能が取り入れられたのは、昭和三十年代以降のことではないかと思うが、これまた定かな記憶は無い。

富裕層の利用する一・二等車は、東海道本線・山陽本線などの幹線では運行されていたに違いないが、ローカル線には配備されていなかったようだ。日豊線には二等車はあったが、一等車は備えられていなかったらしい。

六十年以上も前のことになるが、明治小学校の担任であった藤井先生から次のような話を聞かされた。

安川・松本財閥の創業者である安川敬一郎男爵は戸畑に住まわれていたが、しばしば別府の別荘に行くとき、日豊線の二等車を利用されていた。今日の新幹線もそのようだが、運行する列車ごとに停車する位置は概ね定まっている。だから出迎える別荘の執事は何時も二等車の出口の前に立って、列車の到着を待つことにしていた。ところが或るとき、いつもの位置で待っていたが、降りて来られる筈の男爵が見当たらない。執事は慌てて周辺を見回していると、お孫さんの手をひいた男爵がずっと後方の三等車から降りて来られた。

執事は不思議に思い、どうしていつもの二等車に乗られなかったのか尋ねたところ、男爵は「小学生の孫は二等車に乗る資格は無いから。」と言われたということである。

裕福な家庭のことは分からないが、昔の一般家庭では家族旅行を楽しむなどと言うことは先ず無かった。前述したように、私は臼杵の親戚などに行ったことはあったが、門司港の岸壁から本州を見ることはあっても、九州から出たことは無かった。

中学四年生の時、修学旅行で萩へ行った。関門連絡船で下関に渡り、私は初めて本州の土を踏んだ。松下村塾などを見学しての帰り、下関駅で連絡船を待っていた。

すると向こうのホームに列車が停車している。その客車の窓下に「東京」と書かれているのが見えた。その瞬間、体に電気が走るような興奮を覚えた。今日ならさしずめスペースシャトルの前に立つ感動と言うところであろうか。

今では海底トンネルで本州と地続きになり、新幹線はもとより在来線も直通しているので、車中で読書でもしておれば、本州に入ったことも気がつかない。しかし昭和十七年トンネルが開通するまでは、海峡に妨げられた本州は別世界であり、「東京」の文字は新聞や雑誌の上で見ても、東京行きの列車を目にすることはなかった。

先頃、NHKの大河ドラマ「竜馬伝」で、江戸へ憧れる香川照之演じる岩崎弥太郎を見て、あの時、私の胸中にたぎり立った青雲の志が七十年ぶりに甦り、胸をきつく締め付けられる思いがした。

多くの野望を載せ、これから夜を徹して東京へと駆け続けようとする列車が、黄昏の関門海峡を背に佇むあの風景は、七十年後の今も私の瞼に焼き付いている。

昭和初期の主要幹線には普通列車のほかに、特急・急行・準急など、幾つかの駅に停車せず時間を短縮して走行する列車があった。日豊線には準急しか無かったが、鹿児島本線には急行も走っていた。なお、東京~下関間には「ふじ」と「さくら」の特急列車があり、東京~神戸間には別に特急「つぼめ」が走っていた。

昭和十七年三月上京以来翌年十二月学徒出陣までの間、幾度か東京~下関を往復する特急列車のお世話になった。当時の列車にも、指定席や寝台車もあったようだが、学生の身分では、利用することなど考えたことも無い。

その頃、朝下関を出発、東京まで二十数時間、三等車の固い座席に座り、腕木に寄りかかって夜を過ごしたことである。だから東京駅に到着し、座席から立ち上がって背伸びをすると、体の節々が音をたてるほど強張っていた。

それでも座席を確保出来たときは宰せで、昭和十八年学徒出陣で入隊のため帰郷したときは、始発の東京駅ですでに満席、やむなく通路に新聞紙を敷き、そこに腰を下ろして、長旅に耐えなければならなかった。せめて立て膝に頭をつけて寝ようとするが、しばしの睡眠をとることも許されない。車内を巡回する車掌やトイレを使用する乗客の往復の度に立ち上がって通路を開けなければならなかった。

なお、その頃沼津までは蒸気機関車が牽引していたが、沼津から先は電気機関車となっていた。沼津から小田原までの間には、箱根山地を潜り抜ける長い丹那トンネルがあったから、いち早く電化されていたのだろう。

列車が沼津で機関車の取り替えをするとき、何時も、ようやく東京へ来たのだと思い、下りのときは、今から故郷へ帰るのだと思いをあらたにしたことである。

(註)丹那トンネルU東海道本線熱海~函南間を直線に結んで掘ったトンネル。長さ七八〇四m。大正七年起工、昭和八年貫通、昭和九年十二月開通。なお新幹線の新丹那トンネル(全長七九五九m)も昭和三十九年に開通した。

戦争中は米軍の空爆による車両の損壊、部品の不足による修理の困難などで、国鉄の荒廃も甚だしく。終戦直後の後藤寺線などでは、有蓋貨車を客車代わりにしていた。

この代用車は明かり取りのため、車両の側壁の一部を切り取って窓としてあったが、ガラスを嵌めてあるわけではないから、機関車の煤煙はもとより、雨風も降り込み放題という代物であった。

また貨車の引き戸は重く、女子供では容易に動かせないのと、明り取りのためもあってのことと思われるが、出入口は走行中も開放されたままであった。走行中の振動で乗客が振り落とされないように、その出入口には頑丈な横木が取り付けられていた。だから乗降時には、腰を屈めてこの横木の下を潜らねばならない。駅のホームより高いこの代用車の車台に足を掛け、勢い込んで乗り込もうとすると、しばしばこの横木に頭をぶつけて痛い思いをしたことであった。そのためであろう。暫くしてこの横木はロープに取り替えられた。

もともとが貨車なのだから客席などは無い。乗客はみんな立っている。電車のような吊革や手摺も無いから不安定この上もない。だから年寄りや子供などは床に座り込む者も居た。

復員後、私は麻生鉱業㈱に入社、本社に勤務していたが、その頃麻生太賀吉社長は、中央官庁との折衝や業界団体の会合のため、月の半ばは上京されていた。当時、社長上京のお供をしていたのは、私より四年先輩の木庭暢平さんであった。

木庭さんは容姿端麗、頭脳明晰の素晴らしい方で、後年、太賀吉社長の側近として目覚ましい活躍をされたが、若いときから社長に重用されていた。ところが昭和二十二年七月、木庭さんが結婚直後のことで、新婚早々の夫婦を一ヶ月余りも引き離してはとの社長の配慮から。私に代役が命じられた。

上京のお供を命じられた私は、戦後一度も上京したことが無かったので内心雀躍(こおどり)する思いであったが、他方、社長のお供というのは如何にも気の重いことでもある。ましてや優秀な木庭さんの代役など勤まる筈がない。かねて小心でドジな私は、気むずかしい太賀吉社長の顔を思い浮かべるだけで身も竦む思いである。

しかし反面ズボラで投げやりなところから、まあなんとかなるだろうと言う横着な思いも無いではなかった。

そうした期待と不安の交錯した思いでいると、木庭さんから別室に呼ばれ、社長のお供をするについてのノウハウの伝授があった。頼りない後輩が、飛んでもない失敗をやらかして、社長の逆鱗に触れるようなことがあってはと危惧されてのことであったのだろう、まことに事細かな注意指導を頂いたことであった。

終戦後間もない頃であったから、社長の上京といっても今のような空の便があるわけでもなく、新幹線も無い時代だ。博多から東京まで二十時間余も要する特急列車を利用するしかない。今では旅行客が空路や新幹線へ移り、消滅寸前の寝台車だが、その寝台車すら、まだ復活してなく、米軍の占領統治下にあったその頃は、一等車も米軍専用で日本人の利用は許されていなかった。だから太賀吉社長といえども、二等車の四人ボックスに掛けたまま夜通し辛抱しなければならなかった。

座席の間に手荷物のトランクを置き、その上に脚を伸ばして社長に少しでも楽にしていただくこと。夕方博多駅を出る列車は岡山の手前で夜が明ける。岡山駅での停車時間に、ホームの中央にある洗面所でおしぼりを濡らして社長に差し上げることなど、木庭さんの指導は微細にわたり懇切を尽くしたもので、メモをしながら私はその細やかな心配りにただただ驚嘆するぽかりであった。

後輩を思うその親切は身にしみて有り難いことであるが、聞けば聞くほど、とても自分には勤まりそうもないと言う思いが募ってくる。また、この期に及んで気づいたことだが、社長と同席して夜を過ごすとなると、日頃から盛大な私の鼾(いぴき)はどうなる。座ったまま睡眠するとなれば、見苦しい涎(よだれ))が出るに違いない。次から次へと悩みは果てしないが、今更辞退するわけにはいかない。マスクを買って涎には備えたが、鼾はどうしょうもない。受験勉強で徹夜したこともあるではないか、一晩ぐらい眠らなくてもなんとかなるだろう。

いよいよ上京の日が来た。お供をする段になって和子夫人もご一緒されることを初めて知った。私はいやが上にも緊張せざるを得ない。しかし、車内では社長も奥様も、ことさら優しく言葉をかけられ、緊張に戦く私の心を解きほぐして頂いたことであった。

列車の東進とともに夜がおとずれ、やがて社長ご夫妻におやすみ頂く時間となった。木庭さんに教えて頂いた要領で、座席間にトランクを二つ横たえ、脚を伸ばしておやすみ頂くこととしたが、私は徹夜の覚悟である。文庫本を開いて読みふけりながら、次の仕事は岡山駅でおしぼりを濡らすことだと心の中でおさらいをしていた。

広島駅を通過し、あと暫くで岡山だと思ったところまでは記憶があるが、いつのまにか寝入ってしまっていた。列車の振動で目を覚ましたら、列車は岡山はおろか、すでに姫路駅のホームを離れつつあった。自らの不覚に慌てふためく私の姿に、社長も奥様も苦笑されておられたが、どうしようもない奴と思われたのであろう、お叱言は無かった。

当時の列車には食堂車は無かったが、車内販売の売子は何度もやって来た。通路を挟んだ向こうの座席には、闇商売で儲けたのかと思わせる成金風の男が居て、車内販売の来る度に買い食いをしている。天井に扇風機は回っていたものの、まだ冷房など無い当時の夏の車内だから暑くてたまらない。アイスクリームを食べている向こうの男を見ていると、私も喉から手が出る思いだ。しかし社長ご夫妻は、ご自宅から持ち込まれた魔法瓶のコーヒーとサンドイッチを、食事時に召し上がられる以外は何もお食べにならない。剰(あまつさ)え周りの乗客が時を構わず飲食するなど、苦々しくご覧になっているように窺われる。同席している私は、いくら喉が乾いたからといって、車内販売のアイスクリームに手を出すわけにはいかない。一生懸命我慢していたが、どうにも耐えられない。とうとうトイレに立つふりをしてデッキまで出て、車内販売の売り子を掴まえ、立ったまま大急ぎでアイスクリームを食べた。余り急いで食べたため、脳の血管が収縮したのだろう、前頭部が痛くなった。トイレに立ったにしては、いささか時間がかかり過ぎたきらいはあったが、口元をハンカチで拭い、それこそ何食わぬ顔で席に戻った。

東京滞在中、社長から命じられたことは、炭労(日本炭鉱労働組合)の全国大会を傍聴し、その模様を報告するだけで、その他は何もなく遊ばせて頂いた。

木庭さんからは社長の交際先である政財界の知名士の電話番号など教えられ、メモしていたことであったが、それを利用しなければならないような指示も頂かなかった。上京車内の一日で、私の無能ぶりを感知された社長が、秘書として使うことを断念されたに違いない。

昭和二十五年六月、朝鮮戦争が勃発し、わが国はいわゆる特需景気に恵まれ、急速に経済発展することになったが、それに伴い国鉄の設備も著しく改善向上した。

昭和三十九年十月、東京オリンピック開催の直前、東海道新幹線が完成、営業を開始した。ついで昭和四十七年、新大阪~岡山間の山陽新幹線が開通、昭和五十年には博多まで延長された。それまでは特急でも二十時間ばかり要した東京~博多間が、わずか八時間弱という速さとなった。その後、昭和五十七年六月に東北新幹線、同年十一月に上越新幹線が出来、さらに平成に入って、長野・山形・秋田へと新幹線は延長されている。

東海道新幹線には、当初、各駅停車の「こだま」と主要駅のみ停車する「ひかり」の二種類が設けられていたが、その後の車両改善で、さらに高速の「のぞみ」が出現した。しかし「のぞみ」には、私たち高齢者が利用するジパングクラブの割引乗車券は使用することはできない。JRのこの仕打ちに、私はいささか腹を立てていたが、足腰が急速に衰え、旅行も大儀になった今では、ままならぬ我が身の方がもどかしい。

戦後しばらくは日本経済の急成長とともに発展してきた国鉄だが、全国道路網の整備と貨物自動車の大型化が進むにつれ国鉄の収入を支えていた貨物は次第にトラックへ移って行った。加えて親方日の丸の企業体質が合理化の足を引っ張り、経営は急速に悪化した。当時の中曽根内閣は、国鉄の抜本的解決を図り、昭和六十二年、国鉄はJR七社に分割民営化され、今日に至っている。

新幹線の建設工事は、不況に苦しむ地方経済にとって、喉から手の出るほど欲しい事業だから、今も全国各地で誘致活動が行なわれているようだ。しかし「コンクリートから人へ」を掲げて登場した民主党政府の下で、果たしてどのような裁定がなされるのか、関係者は固唾を呑んで見守っているとか。

九州新幹線の鹿児島ルートは、すでに大部分が出来ており近々完成することだろうが、長崎ルートは費用対効果の面でも疑問があり、沿線自治体の中には反対する声もあると聞くので前途多難な感じである。

長野新幹線の場合、従来の信越本線の横川~軽井沢間は廃止され、今ではその間だけ連絡バスを利用することになっているようである。

首都圏から軽井沢やその先へ行く者は新幹線を利用すれば、運賃は高くなるが不便は無い。しかし地元の人が横川~軽井沢を跨いで在来線を利用するときは、横川でバスに乗り換え、今一度軽井沢で列車に乗り換えなければならないと言うのは、まことに不便窮まりない。これでは在来線の利用客は漸減し、やがては連絡バスも経営が行き詰まり、廃止されることになりはしないか。そういうことになれば、この周辺の住民生活はもとより、経済活動にも支障を来し、影響するところは少なくないに違いない。

こうしたことは、他の新幹線でも派生していることと思われる。それでも新設した新幹線がそれ自体の費用対効果の計算で、在来線の廃止縮小による損失をカバーしてなお余りあるのであれば良いが、そうでなければ新幹線建設は無意味となる。

前にも触れたが、民主党政権は高速道路の無料化を掲げている。これを実施すれば、ビジネスにしろレジャーにしろ、新幹線よりドアツードアの自家用車が利用されるようになるのは明らかである。とすれば、既存の新幹線利用者も減少することになりはしないか。そう考えれば、これからの新幹線建設を慎重に検討しなければならないことはもとより、既存の鉄道網の維持にも智慧を絞らなければならないだろう。

民主党の掲げる高速道路無料化・ガソリン税撤廃は、選挙の票を集めるための手段で、そのうちにCO2削減を錦の御旗にして棚上げするというのであれば、それは詐欺である。鳩山内閣の迷走ぶりを見ると、この国をどうしようとしているのか分からない。

CO2削減から言っても、交通渋滞解消の上から見ても、また増加する高齢者の交通手段確保の意味でも、路面電車や路線バス・鉄道など、昭和の日本を支えてきた公共交通機関をこれからも大事にし、大いに活用すべきものと思われる。

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2016年8月14日

所長の佐藤です。

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