トリガーポイント研究所
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二、住まいの内部のことなど

これまでは、私が少年期を過ごした昭和初期の家のたたずまいと、周辺の模様などについて記してきたが、今度は、建具やトイレなど住まいの内部のことについて、記憶を呼び戻してみる。

なお、前回もそうであったが、もともと整理されていない私の乱雑な記憶の糸を手当たり次第に引き出して記すので、話に脈絡もなく、話題が突然飛躍して、支離滅裂な文章になっている。そんなことで、折角ご覧になって頂く方も、当惑されることがしばしばあるかも知れないが、お許し頂きたい。

① 畳について

日本人が畳を使用するようになったのは、何時頃からだろう。今日、各地の史跡公園などに復元展示されている竪穴式住居などで知ることが出来るように、大昔は土の上に藁(わら)などを広げて寝床としたことだろうし、次には床板の上に薄縁(うすべり)を敷いて居間としていたのだろう。しかし昭和初期の町屋では、居室や寝室は概ね畳敷きで、板敷は玄関先の式台、床の間、廊下と濡れ縁、富裕な家の洋式応接間ぐらいではなかったろうか。もっとも商家の店先や、使用人が食事をするところなどは、板敷きであったようである。

(註)式台(シキダイ)=玄関先に設けた一段低い板敷き。客を送迎して礼をするところ。

昭和十九年、内地防衛部隊の一員として、鹿児島県大隅の山奥に駐屯中、ある農家を訪れたとき、その家では座敷の片隅に畳が積み上げられてあり、家人は板の間に直接座って暮らしていた。その時、聞いたところでは、畳が傷まないように、普段は積み上げて置き、客人を迎える時だけ、敷き並べるということであった。これから考えると、当時の地方農家などでは、畳はまだまだ贅沢なものであったのかも知れない。

最近では、個人の居宅でも、椅子腰掛の生活が一般的になり、畳敷きの部屋は、座敷だけという家が多くなって来ている。また、住宅街の道路でも頻繁に自動車が通るということも原因と思われるが、すっかり見かけなくなったものに、畳職人の姿がある、昔は家の前の道端に台を据えて、大きな畳針を堅い畳に刺して、畳の表替えをしている頑強そうな職人をしばしば見たものである。

そう言えば、私の子供の頃には、梅雨明けの休日など、隣近所一斉に大掃除をしていたものだ。その日は道端に畳を立て合わせて干してある光景が到る所で見られたし、私たち子供も、竹切れで畳の埃(ほこり)を叩き出したり、床下の消毒に石灰を撒く手伝いをさせられたりした。また女子供が重い畳を持て余していると、隣近所の男が気軽に手助けしてやる光景も見られた。

其処ここで畳の埃が舞い上がる中、マスクをかけてする作業は、気持ち良い仕事とは言えなかったが、日頃あまり会うことのない者同士が、珍しく顔を合わせ挨拶を交わしたり、中には仕事の手を休めて話し込む主婦の話し声や、ときには笑い声なども賑やかに聞こえて、子供心には、ちょっとしたお祭りのような、楽しい気分を感じたことだった。あのような風習は、何時頃から失われてしまったのだろう。これもまた、私には懐かしい昭和の風景の一齣である。

② 引き戸・開き戸・突上戸

当時の家の間仕切りには、今日と同様に、襖(ふすま)と障子(ショウジ)が使われ、雨戸やがラス戸はあったが、サッシや網戸などは、昭和三十年代も後半になってから現れたのではなかったかと思う。

麻生の社宅に住んでいた昭和三十年頃、冬の夜は、勿論、雨戸を閉めて外気を防いだが、サッシも無く暖房も火鉢だけと言う当時、造りの悪い庶民の家では、隙間風に震え、冷たい煎餅蒲団に、海老(えび)のように縮こまって寝たものだ。

逆に夏の夜は、冷房などあるわけはなく、涼しい夜風を入れるべく、雨戸もガラス戸も開け放って寝ていた。世情は今程悪くはなかったが、それにしても不用心ではないかと人に言われた。まだ地球温暖化などと言う言葉も聞いたことがなく、今ほど暑くはなかったのかも知れないが、湿度の高い真夏の夜は、いつまでも蒸し暑く耐えられない。

「我が家など盗られる物などあるものか。こんな家に忍び込む泥棒などドジもいいとこだ。」と高を括って寝ていた。

ところが油断大敵、そんな我が家に泥棒がやってきた。
家族全員が熟睡中に裏口から侵入した泥棒も、盗るべきめぼしい物がなく、被害の主なものは、家内の衣類を少々と子供の貯金箱ぐらいであった。翌日、警察に届けるのにも、恥ずかしい思いをしたものである。

しかし、そのときは戸締まりをしてなかったわけではなく、裏口の引き戸が粗末な造りであった為である。引き戸は本来、家の内側に納まるように造られ、閉めた時に戸の末尾が家の壁の内側にあって守られていなければ意味が無い。

私が盗難に遭った家の裏口の引き戸は、敷居が家の外側にあり、閉めて内側から鍵を掛けても、外からバールのような物でこじあければ、いとも簡単に外れる仕組みになっていた。

後日聞いたところでは、その社宅は戦時中に建てられたものだという。おそらく優秀な大工の大半が徴兵され、急遽補充された素人大工の手によるものだったのだろう。工事の監督検査をした会社の営繕係も、同様に欠員補充の素人職員であったに違いない。専門家でない彼らを責めても仕方がないし、被害もたいしたことではなかったので、災難と諦めることにしたが、それまで貰って貯めたお小遣の全額を失った長男の落胆は、小さくは無かったに違いない。

なお、昭和二十五年頃、嘉穂郡大隈の町屋で、引き戸ではなく、突上戸による突き出し窓があるのを見つけてびっくりしたことがある。

時代小説の挿絵などで見たことはあったが。それは、鴨居や敷居の溝を削るには技術を要し、そのため引き戸が高価であった時代のことで、もはやどんな家でも、窓は左右に押し開ける開き戸か引き戸が当たり前とばかり思っていた私は、自らの無知をあらためて思い知らされたことであった。

突き上げ戸

(註)突上戸(つきあげと)=上端を鴨居に壷金または蝶番(ちょうつがい)で取り付け、俸で突き上げてさし出す戸。
(註)壷金(つぼかね)=開き戸の開閉のために打つ環状の金具。肘金を受けさせるに用いる。
(註)肘金(ひじがね)=金物で折釘のように曲げて作り、開き戸の枠に取り付け、肘壷に差し込んで戸を開閉させるもの。

ここで私の無知をさらすことになるのかも知れないが、日本の家屋には引き戸が多く使われ、アメリカや欧州の家屋は開き戸=ドアが主流のように思うが、どうしてだろう。

思うに、温暖湿潤なわが国の家屋では、夏の暑さを凌ぐことが構造の主眼とされ、緯度の高い欧米では、防寒保温に重点が置かれたためではなかろうか。日本家屋では、通気を良くするため床を高くし、窓を広く取り、しかも暑い季節には、引き戸を取り外し、簾(すだれ)を下げられるようにしてある。これに対して洋館では床は低く、窓は狭く、壁は石やコンクリートな
どで頑丈に造られているものが多いようである。

玄関などの出入り口も日本では、引き戸で、夏など昼間は開け放し、目隠しに簾を下げたりしている。最近では日本の家屋も洋風化して、玄関は一枚ドア、床もずいぶん低く、窓や掃き出しも少くなっている家が多いようだ。

また、私の偏見かも知れないが、日本は海に囲まれ、元寇以外、外敵の侵入を受けたことが無く、世界史的に見れば、国内も比較的平穏であったので、家屋の構造も盗難防止より、快適な居住性に重点が置かれ、開放的な引き戸を多用したのではないか。

これに対して、民族の大移動に見るような民族間の抗争を経験したヨーロッパや、易姓革命を繰り返して来た中国では、安全保障を第一に、防御に強い扉に固執したとも考えられるが、如何なものだろう。

前述したように、引き戸には鴨居と敷居に同じ幅で、かつ、戸が滑らかに移動出来る溝を削る技術を要する。われわれは日常無意識に引き戸を開け閉めしているが、考えてみると、それには専用の鉋(かんな)まで作られているように高度の技術が秘められて居る。そうした技術は人間の叡智が、突き上げ戸や開き戸のレベルから一段階進んでから、発明されたものではないかと思われる。

象形文字を出発点とする漢字でも、もともと「戸」は片開きの戸を、「門」は左右に押し開く両開き戸を描いた象形文字という。後世、「戸」は「戸数」などのような、人家をも意味するようになり、また「門」は、「名門」や「門閥」など家柄などの意にも用いられるようになった。そこで、原義の開き戸を意味する字として、別に「扉」が作られている。

しかし、私は不学にして、引き戸を象形する漢字を知らない。それは中国でも引き戸は少ないからなのだろうか。また、今日中国では、引き戸をどのように表現しているのだろうか、疑問になった。そこで、最近、中国語を勉強していると言う孫に問い合わせてみたら、辞書の上では、「拉門(ラーメン)=引き戸」とあり、もともと「拉」は引っ張る意、「門」は戸を意味する字であると解説してくれた。

因みに、漢字源(藤堂明保他編)によれば、「障」は遮るを意味する漢字で、障子(ショウジ)は日本製の熟語であり、本来、衣服の袷(あわせ)を意味する「襖」を、「ふすま」の意味に宛てるのも日本的使用法という。

また英語のドアは開き戸を意味しているが、引き戸はなんというのだろう。私の手元にある和英辞書には「引き戸」という日本語見出しが掲げられていない。そこでこれも、孫に聞いてみた。彼はかつて二年ほどイギリスに留学したことがある。その経験にもとづいて言うには、しいて英訳すれば、「スライディング・ドア」だろうが、そう言っても、向こうの人には通じないだろう。向こうでは、引き戸を見たことがないので、彼らには実物を見せる以外に分からせようがない、ということであった。

日本では今日、役所や病院などの公共施設はもとより列車の出入り口など、きわめて多くのところで自動式ドアが設けられている。あまりにも普遍的なものとなっているので、我々は出入り口の前に来ると無意識のうちに立ち止まり、ドアの開くのを待つ習慣が身に付いている。この自動式ドアも形式から言えば、大半が引き戸である。 もうずいぶん前のことだが、来日した外人が、ビルの入り口に来たら突然ドアが開いてび。くりしたという記
事を目にしたことがある。私は海外のことには暗いので分からないが、やはり日本は引き戸文化の国と言って良いのかも知れない。

今では新幹線はもとより、JRのロ-カル線も私鉄電車でも、出入り口は全て自動ドアとなっている。私は長女が安曇野市豊科に住んでいるので、JRの大糸線を何度も利用している。

これも、もうずいぶん前のことだが、松本駅から乗った列車が豊科駅に到着したので、降車すべく乗車口のドアの前に立ったが、ドアが開かない。そんな筈はないがと思っていたら、傍らに立って見ていた女子高校生が、ちょっと微笑み無言のまま、ドアの枠の柱に設けられているボタンを押して、ドアを開けてくれた。

大糸線は単線運行である。だから上下線の列車の離合をするために、途中駅でしばしば対抗列車の通行待ちをすることになる。その停車時間中、客の乗降のためドアを開け放しにしていては、信州の冬は冷たい風が容赦なく入って、車内の客は迷惑する。そこで寒い季節は、ドアの自動制御を解除して、乗降客が必要に応じてボタンを押す仕組みに切り替えられているのである。
初めて冬の安曇野を訪れた私には、信州ならではの寒さを実感するとともに、心優しい女子高校生が印象に残る旅となったことであった。

家の仕切り戸の話からずいぶん脱線したが、脱線ついでに、回転ドアのことに触れてみる。空港の搭乗口で回転式バーに、私が初めてお目にかかったのは、昭和三十七年頃のことではなかったかと思う。あれは乗客の搭乗券を確認するために設置されたものだろうが、荷物と同様に仕分けられているようで、初めて経験する者にとっては余り気持ちの良いものではなかった。しかし、その後、都会のビルの出入り口に、回転扉が見られるようになってきた。頻繁に出入りする人々が、衝突しないように配慮したものだろうが、私のように動作の鈍い者は、ドアの回転速度に順応出来ず、戸惑うこともしばしばである。

何時のことだったか、学童が回転ドアに挟まれて大事故となったと言うニュ-スが報じられていた。これに関連して製造メーカーに手落ちがあったのではと、しばらく騒がれていたようである。高齢化社会などと言われていることだから、私のように回転ドアについて行けない老人も増えて来る。だからメーカーは安全に対し万全の配慮をしてもらいたいことは言うまでもない。

だが、この事件だけで無く、学校や公園などでの学童事故の度に、メーカーと監督機関などの責任追求ばかりが報道されているように思われる。しかし、事件によっては、被害に遭った子供に年齢相応の分別があれば、起こらなかったのではと思われるものも少なくないようだ。
どうも家庭における子供の教育や躾がなされていないことが、大きな要因とな。ているのではないかと思われてならない。

最近の親は、我が子を猫可愛がりし、あれは危ない、これは危険と、遊びや行動を制限禁止するばかりしてはいないか。たまには転んで膝を擦り剥くなどすることで、子供自身、何が危険か、どこまでが安全かを体験し、判断能力を身に付けるものだ。

母親の務めの第一は、日常子供の行動を見守ることにあり、安全の限界を超えそうなとき、はじめて手を出す冷静さが大切ではないかと思われる。

また開きドアのことに戻るが、昔勤めていた麻生本社事務所の大広間の出入り口には、前後どちらにも開く片扉のガラス戸のドアが取り付けられていた。多くの人が頻繁に出入りするところだから、このドアのところで人と人が遭遇し、お互いに押し合ったり、引っ張り合ったりする光景もしばしば見られた。

昭和三十年代のことだが、私と同じ職場に広津ウメさんという年配の美人が居た。大分女子師範学校を卒業し、戦時中は小倉造兵廠で将校並みの待遇を受けていたとか聞いたこともある、能筆家でもあり、なかなかの才媛であった。その頃の新入女子社員は、みんな広津女史から新入社員としての躾を受けていたようだ。

ある日、その広津女史が、
「大広間のドアを開けて出入りするときは、ドアは必ず手前に引き、向こうから人が来ていたら、ドアを押さえ傍らに身を寄せ、相手がスムーズに通れるようにするように・・・。」
と、新入りの女子社員に教えていた。

私はそんなことまでと思ったものだが、
「今頃の女の子は躾がされてなくて、ドアの向こうから来る先輩でも、押し戻しかねないのよ。」
と話していたが、その広津さんは、まだ五十そこそこの若さで、球麻痺とか言う難病を患い、亡くなった。
狭い道で、スピードも落とさず自転車を飛ばして、他人の側近くを走り抜けていく今日の女の子を、もし広津さんが見たら、卒倒しかねないのではと思う。

前述した孫の話でも。イギリスでは列車の連結口も開き戸で、向こうから来る人と遭遇したら、ドアを手前に引き、手で押さえて道を譲るのが当たり前のエチケッ卜だとのことであった。

冷暖房の効率の為には、サッシなど気密性の高い建材を用い、開口部を少なくすることが必要だろうが、近年騒がれだした新建材によるハウスシック症候群とか、カーペットに巣くう壁蝨(だに)の被害などのことを思うと、気候風土を異にする欧米の生活様式を、闇雲に日本に持ち込むことは考えものではなかろうか。

地球温暖化・資源のリサイクル、さらにはインドや中国の経済発展やアフリカ諸国など開発途上国の爆発的人口増加など、今日の世界が抱える問題解決の一環として、われわれの生き方も見直すべき時ではないかと、思ったりする。

③ 蚊 帳

われわれが育った頃は、まだ網戸が無く、衛生環境も悪かったので、当時は蝿や蚊が多く、夏の夜は蚊取り線香と蚊帳(かや)が必需品であった。しかし、蚊帳の中へ入る時、蚊を連れ込まないようにするのには、入る直前に外で蚊帳を揺らして付近の蚊を追い払い、素早く潜り込む要領を必要とした。

また蚊帳も寝具と同様に、毎朝片づけなくてはならないが、六畳吊りの蚊帳など手際良く畳むのは、まだ体の小さい子供にとっては、むつかしい作業であった。

昼寝をしている赤ん坊の、甘い母乳の匂いには、たちまち蝿が集まって来て眠りを妨げる。それを防止するための折畳式子供蚊帳があったし、また食卓の上の、食べ物や食器に蠅がとまるのを防ぐための、小さな折畳式の蠅帳も使われていた。

(註)蚊帳(かや)=蚊を防ぐために吊り下げて寝床を覆うもの。麻布・木綿などで作る。冷房と網戸の普及によって、わが国での蚊帳の使用は、ほとんど見られなくなったが、先日のテレビによると、今も生産はされていて、マラリヤ蚊に悩まされているアフリカ諸国などに輸出されているそうである。
(註)蝿帳(はえチョウ)9食物を入れる台所用品の一つ。蝿などの入るのを防ぎ、また通気をよくするため紗(サ=薄絹)や金網を張った戸棚。

④ 蝿取りテープ・蝿叩きなど

現在の私の家は、梅雨時から初夏にかけては、蛙の鳴き声で眠りを妨げられるような田舎にあるが、それでも今日、蝿の飛ぶのを見ることは多くない。

農家が家毎に牛馬を飼い、田圃の片隅に人糞を溜めたドツボ(肥溜め)があちこちに見られた昔は、農村はもとより、街中でも跳梁する蝿はものすごく、魚屋や食堂の店先はもとより、一般家庭でも、褐色の粘着剤を塗布した蝿取りテープが、天井から吊り下げられていた。

ハエトリテープ

私が飯塚の社宅に住んでいた昭和三十八年当時、まだわが家の台所に蝿取りテープが下げられていたように記憶している。

昭和六年に満州事変が勃発して以来、日中紛争は次第に拡大し、日本国内に戦時色が広がるとともに、物資は不足気味となり、われわれの食生活も乏しくなってきた。

他方、兵力増強のため、工場や農村の働き手が不足し、それを補うため、昭和十三年から学生が勤労奉仕と称する強制労働に駆り出されることとなってきた。その年、私は小倉中学の四年生であったが、四年生と五年生は全員、夏休みに二週間、小倉造兵廠で手榴弾の火薬を詰める作業に従事させられた。その時は勤労奉仕とは言うものの、労働の対価として幾許かの賃金が支払われた。しかし、その後は文字通りの奉仕であったように記憶している。

昭和十五年、高校生のときの勤労奉仕で、私は同級生等と糸島郡の農家の麦刈りに行かせられぺ報酬は無くても、農家では腹一杯米の飯を食べさせて貰えると聞き。みんなそれを楽しみにしていた。私は友人と二人、割り当てられた農家で、はじめての麦刈りをした。しかし、要領が悪く、作業はろくろく捗らず、鋭い麦の穂先で痛い思いをする有り様であった。

しかし、農家の主婦から、昼飯時を告げられたときは、待ってましたとばかり、早速井戸端で手を洗い、入り口の上がり框(かまち)に腰を下ろして待った。すると、私の後に手洗いから戻って来た同僚が、私の耳元に顔を寄せ「おい、旨い飯が食えるぞ。裏の台所に刻み海苔がかかった豆ご飯が山のようにあったぞ。」と囁(ささや)く。その頃、海苔など滅多に見ることも無かっただけに。私たちは期待に胸を膨らまし。昼飯の出てくるのを待っていた。

やがて、その家の主婦が「学生さんたち、さあいっぱい食べんしゃい。」と、大きな飯桶を抱えて来た。ところが確かに友人の言う豆ご飯が、桶に山盛りされているが、ふんだんに載っている筈の海苔はどこにも見えない。
「おい、海苔は無いではないか。どうなっとるのか。」
と問いつめるが、彼は「おかしいなー。さっき裏で見た時は、ご飯が隠れるくらい黒い海苔が載っていたがな。」と首をかしげるばかりである。

このご時世に、農家にだって海苔などある筈がない位、ちょっと考えれば分かり切ったことではないか。海苔がかかっていたと言うのは、慌て者の彼の見誤りに違いない。だが、「確かに、一面黒い海苔が振りかけられていた。」と、彼はあくまで言い張る。挙げ句には「海苔のかけてあったのは、この家の者が食べる桶だけだったのかも。」などと、さもしいことまで言い出す。

食後、トイレを借りるために。同じ土間を通り抜けたとき、台所にもう一つ飯桶が置いてあるのが見えた。遠目には、確かに飯桶の表面は真っ黒い海苔で覆われているように見える。しかし私がそのすぐ側を通り過ぎようとした途端、海苔は一切れ残らず、一斉に飛び立ってしまった。海苔とばかり思っていたものの正体は、豆ご飯の表面に群がる蠅の大群であったのだ。

蝿叩きは家庭の常備品であったが、小学校では蝿取りデーを定め、その日は家庭で捕獲した蝿をマッチの空箱に入れて、学校に提出させられていた。今にして思えば、あれは、衛生環境向上を目的として、国が奨励した行事だったのだろう。蝿叩きも今では滅多にみられなくなったが。「五月蠅」をウルサイと読める人も珍しくなっているのではないか。

⑤ 洗面と歯磨き

今時は大抵の家に、脱衣所と兼用にしても、洗面施設が備えられている。しかし昔の庶民の住宅では、洗面専用の設備がある家は少なかった。私が幼児期を過ごした家も、洗面は井戸端や風呂場で済ませていた。

当時は銭湯を利用し、自宅に風呂の無い住まいも多く、そうした家では、炊事場の流しで洗面をすることも少なくなかった。
また、家によっては、裏口の庭先に洗面台が据えてあり、毎朝庭の花を鑑賞しながら、歯を磨き、顔を洗っている人の姿を見たこともある。

昭和二十四年、結婚当初入居した麻生本社の社宅では、風呂場に通じる廊下の脇に、半開ほどの洗面所が設けられていたが、転勤して次に与えられた吉隈炭坑の社宅では、風呂も洗面所も無く、入浴は炭坑の共同浴場を利用し、洗面は流しで済ませていた。

洗面器も今日ではプラスチック製品が多いようだが、昭和初期は、プラスチックはまだ無く、木製の小さな裲または琺瑯引の洗面器が広く使われていた。

昭和二十六年、麻生典太専務のお供をしての出張で、佐賀県伊万里の旅館に泊まったことがあった。翌朝、宿の洗面所に据えられている伊万里焼の洗面器に水を入れると、底に描かれている緋鯉が浮き上がり、泳ぎ出すように見え、その見事さに驚いたことが思い出される。

(註)琺瑯(ホウロウ)=金属の素地、主に鉄器など釉薬(うわぐすり)を塗。て焼き、ガラス質に変えて、これで表面を覆ったもの。防錆、装飾などを目的とする。

歯磨きと言えば、今日では、チューブ入りの練り歯磨きが一般的だが、私の子供の頃は、まだ袋に入った粉末の歯磨き粉で、使用中に、ちょっとした鼻息でも、しばしば粉が舞い上がり、着物の胸元を汚し、母に叱られたりした。

小学校高学年の頃には、もう練り歯磨きになっていたようだが、今度は無駄無く使うよう、チューブの尻から押し出すようにと、やかましく言われたものだ。

なお、われわれの親の世代が育つ頃は、指に食塩をつけて歯磨きをしていたようである。

⑥ 風呂について

今日では、独立家屋はもとより、アパートでも多くは専用の風呂があるが、昔は自宅に風呂が無く、共同浴場いわゆる銭湯を利用する人が少なくなかった。私の幼児期、小倉市西原町や到津の借家に住んでいた頃、銭湯に行ったという記憶はないが、さりとて、我が家に風呂があったという記憶も無い。たいして広い家でもなかったようだから、銭湯を利用していたのだろう。

その後、昭和三年頃入居した西南女学院の教員住宅には自家用の風呂があった。当時は木製桶型の据え風呂、もしくは五右衛門風呂が多かったようだが、我が家のは、浴槽全部が鉄製の五右衛門風呂で、入るのには底板を足で巧みに操作して釜底に三つある突起に引っ掛け、固定しなければならず、また入浴中、まわりの鉄釜に触れて火傷しないように、常に要心せねばならぬと言う、厄介な代物であった。

なお、当時の風呂釜はいずれも、薪や石炭を燃料としていたが、湯が沸き上がるまではもとより、家族みんなが利用し終わるまで、つきっきりで燃料の補給をしなければならず、寒い冬の夜、焚き口の傍で、長時間風にさらされる辛さは、今日の自動式風呂釜の生活で育った人には、想像も出来ないことだろう。

(註)五右衛門風呂《ゴエモンふろ)り安土桃山時代の盗賊、石川五右衛門が釜茹での刑に処せられたという俗説によって名付けられた。桶の底に平釜を取り付け、竈(かまど)に据え付けて、下で薪を焚いて沸かす据え風呂。底板は水面に浮かび、入浴のときは、これを踏んで下に沈め、その上に乗って入る。なお、全部鉄釜としたものもある。

ところで、豪邸のゆったりとした檜風呂などは別として、当時の庶民の家の浴槽は、桶風呂にしろ五右衛門風呂にしろ、浴槽は狭く縦長で、しゃがんで入らなければならない。腰を下ろし足を伸ばして入浴出来る、洋風の浴槽は、全面泡立つ浴槽から女優が顔と腕を出しているアメリ映画で見たことはあったが、日本の家庭で見られるようになったのは、何時頃からだろう。

私が昭和五十年に入居した横浜の家の浴槽も、昭和六十三年に長男が建てた飯塚の家の風呂も、いずれも腰を下ろして足を前に出すことは出来ても、膝を伸ばしてまでとはいかない。平成十二年に次男が建て替えた横浜の家で、初めて真っ直ぐ足を伸ばせることになったが、今度はその分、底が浅く、湯を浴槽一杯にしなければ、肩まで浸って寛(くつろ)ぐというわけには行かない。

♪いい湯だな、・・・♪と鼻歌混じりに極楽気分になるのは、やはり温泉宿の大浴場に勝るものは無いということだろう。

ところで、この湯上がりの極楽気分をぶち壊されるのが、近年の入浴客のマナーの悪さである。大浴場の浴室から脱衣室への上がり口には、足拭いの敷物が置かれているが、その敷物が湯上がり客の足で、ずぶ濡れになっている。そこに足を乗せた時の気持ちの悪いことには、いつも鳥肌の立つ思いをさせられる。

昔は、自宅ではもとより、銭湯でも、湯から上がるときは、板の間に上がる前、浴室のたたきで十分体を拭いて上がっていた。湯上がりの体から滴る水分で、床板が腐蝕することのないように、また敷物を濡らして次の人に不愉快な思いをさせないようにと、やかましく躾(しつけ)られたものである。
それが、どうしてこんなことになってしまったのだろう。私は、今日広く使われているバスタオルが、どうもその元凶ではないかと、思っている。

私たちの子供の頃は、濡れた体を拭うには、日本手拭いか通常のタオルしか無かった。木綿布の日本手拭いは生地が薄く水分を多鼠に吸収するには適しない。そこで吸収性の高いタオルの出現とともに、入浴にはもっぱらタオルが用いられてきたが、体を流した濡れたタオルでも、しっかり絞ればあらかた体を拭えて、足拭きマットに水分を滴らすことはない。

ところがバスタオルが出現して以来、人々は濡れた体は脱衣室のバスタオルで拭くものと考え、浴室内でタオルを絞ることも、それで体を粗拭(あらふき)することもしなくなったようである。

温泉宿や銭湯などで見ていると、入浴客のほとんどは、浴槽から出ると、まだ湯水が滴る体のまま、づかづかと脱衣室に人って来ている。これでは足拭マッ卜がずぶ濡れになるはずである。

なんと躾の無い奴らだ。親の顔が見てみたいなどと内心いらだたしい思いをすることもしばしばだが、ふと自分の孫達は、果たしてどんな振舞をしているだろうかと反省してみると、恥ずかしながら自信は無い。

なお、都会の銭湯と言えば、昭和四十七年頃、東京都目黒区の借家に住んでいたとき、近くの駒沢公園の入り口に、衾湯(ふすまゆ)という銭湯があった。我が家には据え風呂があったので、私たちは利用したことはないが、その銭湯には自家用車でやって来る客がずいぶん利用しているようであった。

銭湯の前に停車した自動車から、石鹸やタオルなど入浴道貝を入れた洗面器を片手に、幼児を抱えた若夫婦が幾組も降りてくる姿が夜毎に見られた。マイカーはローンで手に入れ得ても、まだマイホームまでには手が届かず、浴室の無いアパート暮らしを余儀なくされているのではないかと思われた。今にして思えば、あれはまさに当時の庶民生活を象徴する風景であった。

ふと、あの時の若夫婦達が、今、定年を迎えようとしている所謂「団塊の世代」の人達ではなかったのかと思いあらためて時の流れを感じたことである。

⑦ トイレ

今日では、大都会はもとより、地方都市でも水洗式トイレが普及し、我が家のような遅れたところでも、蓋付の簡易水洗トイレにはなっている。しかし、昭和初期のトイレは、すべて汲み取り式便所で、臭気を遮る蓋もなかったので、富裕層の豪邸はいざ知らず、われわれ庶民の住む手狭な家屋では。家中どこでもトイレの臭気がそこはかとなく感じられたものである。

かつて、イ-デスハンソン女史が、「日本の家屋では、初めて訪れた家でも、トイレを借りるとき、その位置は聞かなくても、すぐに分かるわよ。臭気を辿って行けば、その先に必ずトイレがあるよ。」と話していたのを、テレビで見た覚えがある。

昭和四十三年に入居した柏森の社宅のトイレは、特別臭気が甚だしく、大げさに言えば、中にしゃがんでいると、卒倒しかねない有り様であった。堪り兼ねて換気扇を取り付けてもらうことにしたが、その効果は覿面(テキメン)で、初めて使用した換気扇の威力を実感したことであった。

トイレを意味する漢字は、廁(シ=かわや)であるが、この字は广(ゲン=家の意)と則(ソク=側にくっつく意)の組み合わせで、原義は、母屋の側に造られた便所を意味している。これを見ると、大昔からトイレは母屋とは別に設けられていたものと思われる。竪穴式住居のような構造ではもとより、多少進化した住居でも、排泄物の処理を考えれば、それは当然のことであろう。

しかし、その都度母屋を出て用を足す不便も、耐え難いものがあったに違いない。そこで時代の進化とともに、貴族や豪族など、大きな家が造られるようになると、母屋の一部にトイレを設けることにしたのだろう。それがやがて手狭な庶民の住いにまで及び、今日の姿になったということだろう。

だから、農家など昔ながらの家では、母屋(おもや)とは別の屋外に設けられて居たし、軍隊の兵舎でも、便所は居住棟とは別棟となっていた。また炭坑の鉱員長屋などでは、長屋のはずれに、共同トイレが設けられてあり、六、七軒ある長屋の住人全員が、それを利用することとなっていた。

私も福岡の兵舎でも経験したことであったが、入隊したばかりの初年兵で、余程緊張して居たのだろう、トイレに関する記憶は一切無い。その後、内地防衛部隊に配属され、鹿児島県大隅の山奥に作られた仮兵舎に起居していたとき、屋外トイレの経験をさせられたが、冬の夜や雨風の中、寝床から抜け出し。屋外のトイレまで行かなければならない辛さは、今思うだに、ぞっとする。

ましてや、炭坑の長屋に住むうら若い女性には、男女の区別も無い共同トイレを使用しなければならないのは、耐え難いものがあったに違いない。

炭坑の鉱員住宅も、後には各戸にトイレのついたものに改善されてはきたが、共同トイレはずいぶん長く使われていたようだ。

なお、昔の農家は人糞を肥料としていたので、町屋まで農家から汲み取りに来ていた。物の本によれば、江戸の汲み取りには、それぞれ権利があり、どの家は誰が汲み取るなど決まっており、農家は汲み取りの代償として、大根などの野菜を持参していたという。

戦中から戦後にかけて、食料難の時代には、会社の社宅でもそれぞれの庭はもとより、社宅間の道路も、人間が歩ける通路を残して、その他はすべて畑にして野菜を作っていた。今時の人には考えられないことだろうが、そうした家庭菜園でも、自家の糞尿が肥料として利用されていたものである。

柏森の麻生本家の手前に、俗に六軒社宅と言われる社宅があり、そこに本社労務課長であった小林虎雄さんが住んでおられた。あれは昭和二十五年頃のことだったと思うが、ある日私たち労務畑の若手が何人か課長宅に招待され、ご馳走になった。奥様は調理がお上手で、仕出し屋から取り寄せられたのではないかと思われるような見事な料理をいつも披露されていたが、その日も奥様の手料理を肴に、足もとがふらつく程お酒を頂いたことであった。

その帰り道、当時、宮田町から汽車通勤していた渡辺一夫君が、駅へ近道しようとして、みながとめるのも聞かず田圃の中の畦道へ向かった。そして間も無く傍らのドツボ(肥溜め)に片足を踏み込んだらしい。大声を上げた割りには、片方の靴を汚した程度で済んだが、その臭気に辟易(ヘキエキ)して、誰も近づかない。一人になった彼が、その後どうやって帰宅したか知らないが、翌日、本人がえらい災難に遭ったとぼやいていたら、それを見ていた課長が「渡辺よ、お前はえらく出世するぞ。なにしろ、誰にもつかなかったウンがついたんだからな。」と言われて大笑いしたことだった。

彼は、われわれ仲間の中で、一番早く係長に昇進したが、それは、何時もやる気まんまんの彼の仕事ぶりと才能によるもので、ドツボの一件とは無関係のことであ、たに違いない。

彼は酒豪でもあったが、どんなに深酒しても、勤めを休むなど一度も無いほどの元気者だった。しかし、まだ五十歳、嘉麻運輸(株)の労務担当重役として活躍中というのに、心筋梗塞で急死した。

⑧ トイレットペーパー

今では個人住宅のトイレはもとより、病院やデパートなどの公共施設のトイレでも、ロール状のトイレットペ-パーが備えられている。しかし私達は幼児の時から長年落とし紙には塵紙(ちりがみ)を使。て来たもので、自宅のトイレではしかるべき量の塵紙を入れた箱が置いてあったが、公共施設のトイレには備えが無く、各自持参の塵紙で用を足さねばならなかった。だから、外出するときは、ハンカチと塵紙を忘れず持参するよう、何時も母親に注意されていた。

最近では森林保全のため、紙のリサイクルなどが喧伝されているようで、再生紙の表示のあるトイレットペーパーーを見かけることがある。それでも、現代人のティッシュペーパーの濫用は、私のような年寄りには、甚だ目に余るものがある。

広告宣伝用に使われて、道行く人に、小さな袋入りのティシュペーパーが手渡されるようになったのは。何時頃から始まったことだろう。こちら飯塚に来てからは、私自身が街中へ出て行かなくなったこともあるが、あまり見かけなくなったようだ。しかし、首都圏で毎日通勤していた頃は、行く先々で手渡され、一日でポケットに入り切れないようになったこともある。毎日使い切れないほどのティシュがただで手に入るのだから、無駄使いの習慣が身に付くのも当然ということだろう。

次に紙の大量消費で目に付くものは、分厚いコミック雑誌と新聞だが、今日の新聞は、昔に比べて一日分の紙面がものすごく増えている。海外ニュースやスポーツ記事が時代とともに多くなったことも確かだが、その最大の原因は、広告欄の激増だろう。そのため朝刊だけでも三十ページを超える有り様で、それに折り込み広告まで加わり、休日の朝など新聞受けに溢れる分量の紙束が投げ込まれている。どこの家庭でもこの大量の紙の処理には、時折一纏めにして、故紙回収車を待つ現状である。

これに対して、昔は配達される新聞紙の枚数も少なく、折り込み広告なども滅多に無かったように思う。また家庭でも用済みの新聞紙は、習字の練習用紙・弁当箱の包み紙や、火をおこす時の焚き付けの紙などに利用し、処分に困るなどということはなかったものである。

また、昭和初期の小売り店では、野菜や魚など新聞の古紙で包んでお客に渡すことはもとより、駄菓子屋などでは新聞紙で漏斗型の袋を作り、これに煎餅や貽玉など子供が直接口にする駄菓子を入れて手渡していた。考えてみれば、不衛生きわまりないことが、平気で行なわれ、それに違和感を抱くこともなかった。
そう言えば、当時の八百屋の店先には、適当な大きさに切り揃えた新聞紙の朿が、天井や柱から吊り下げられていたのを思い出した。

ところでトイレヅトペーパーといえば、昭和四十八年十月、第一次オイルショックのとき、日本中の主婦が卜イレットペーパーの買い溜めに狂奔したことがあった。

あの時は第四次中東戦争を受けて、アラブ産油国がイスラエル支持国への石油輸出停止を決定したニュースがまきおこした大騒ぎであったが、大阪から始まったデマが増幅されたものであることが明らかになり、間も無く沈静化した。

しかし、石油をはじめ資源の大半を輸入に頼る日本では、こうした一部の風評が、たちまちパニックを引き起こすということが、実証された事件でもあった。そもそも人類は何時から、排便の後、残存物の処理をするようになったのだろう。

馬や牛など動物が、排便の後処理をしているところはあまり見かけたことがないが、我が家の飼犬は時に排便後、肛門付近を草に擦り付けていることがある。そう言えば、いつぞやパンダの親が、生まれたばかりの我が子の尻を嘗めて、排便の後始末をしてやっている光景がテレビで放映されていた。してみると、動物でも人間と同様に始末をしなければ、肛門の周辺の皮膚がかぶれて炎症を起こしたりするのかも知れない。しかし、親パンダが、自らの後始末をしているところの画面は無かったし、最も人類に近いと思われる猿でも、お互いに毛繕いしている姿は見かけても、排便後の始末をしているところは見たことがない。動物は成長し、独立して行動出来るようになれば、もう始末しなくてもかぶれたりしなくなるのだろうか。動物の生態に詳しい人に聞かなければ私には分からない。

いずれにしても、人類は何時の頃からか、排便後の始末をするようになったことは間違いない。しかし、大昔はその処理をどんな方法でしていたのだろう。おそらく初めは自分の手を使い、後で手を水で洗っていたのではないか。いずれにしても、塵紙が使用出来るようになるまで、何を用いたか分からないが、ずいぷんと苦労したことだろう。

今では死語と言ってもいいくらい使われなくなった言葉に、廁(かわや)がある。雨の多い日本では、大小無数の川に恵まれているが、廁は、住まいの側の小さな川に小屋掛けをしてトイレとしたことから出来た言葉といわれている。これから考えると、今日最新式のトイレに備えられている噴射式洗浄器と同様、直接水で洗浄していたのかも知れない。

しかし、どこでも水で、と言うわけにはいかない。そうしたとき、二本の立ち木の間に藁縄を渡し、その上を跨いで通ることで済ませたとか、落とし紙の代わりに竹箆(たけべら)が用いられていたとか聞かされていた。

昭和十九年、鹿児島県大隅の辺鄙な樵小屋(きこりこや)でトイレを借用したとき、大便所の便器の前左右に、竹箆(たけべら)が数本づつ入った箱が置いてあるのを初めて見た。

左右二つの箱があるのは、使用前と使用後のものを区別し、使用済みのものは、後で洗ってまた使用前の箱に戻して再使用しているものと思われた。

字統(白河静著)の「廁」の項に、音はシ、訓として。「かわや、まじわる、ぶたごや」。と掲げられている。また、その説明の中で、「長い桟を渡して、その上に列んで用を足すしかたであった。廁籌(シチュウ)は糞かきべら。インドにその風があり、中国へは仏家がもたらしたという。」と記されている。これを見ると、その昔、豚小屋の上に桟を渡して、これに乗って用を足し、人糞を直接豚の飼料としていたようであり、その際すでに竹箆(たけべら)が使用されていたことが分かる。

そんな片田舎でなくても、昭和初期の庶民の中には、新聞紙を適当な大きさに切り、塵紙の代わりに落とし紙として使用している家もあった。ことに戦時中次第に物資が乏しくなるにつれ、それなりの暮らしの家でも見られるようになっていた。

当時の新聞の一面には、しばしば皇室に関する記事や、ときには皇族のお写真も掲載されていた。そんな紙面を落とし紙としては畏れ多いと、該当する紙面を切り抜いて置くために、下宿している家のお婆ちゃんが、毎日丹念に目を通していると、友人が話していた。

われわれ庶民は、自分の顔写真が新聞や雑誌に掲載されることは先ず無いから、考えてみたことも無かったが、道端に投げ捨てられた新聞紙や雑誌の紙面にある有名夕レントの顔写真が、泥靴に踏みにじられているのを見ると、本人にしてみれば、決して気持ちの良いものではないに違いないと思われる。

しかし、芸能人はスキャンダルを自己宣伝の手段としたり、自分のヌード写真集すら出版するような神経の持ち主のようだから、われわれ庶民の感覚で推し量ったりすることは、無意味なことかと思い返したりする。

昨年秋以来、百年に一度の世界的不況がやってきたと伝えられ、やれ派遣切りだの、やれ倒産だのと、毎日暗いニュースが続いている。老い先短かい私達は別として、若い人たちがまともに働けるよう、一日も早く景気が回復してはしいと思っている。

先日のG7では、国際協調や自由貿易擁護など綺麗事が共同声明として発表されてはいるものの、現実の対応としては、世界各国は自国の産業を守るため、関税障壁を高くするなど、国益優先の行動に走り出しかねないのではないか。昭和初期の世界恐慌のときは、その挙げ句、貿易摩擦が激化し、やがて世界大戦へと進んだ苦い経験をわれわれは知っている。私は、この危機に何をする力も持たないが、世界の指導者達が全人類的視野に立って冷静に対処し、新聞紙を落とし紙にするような時代が、再び来ることの無いようにひたすら祈っている。

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2016年5月22日

所長の佐藤です。

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